お茶のまち静岡市

まちのあり方をも変えた、
清水港からのお茶の直輸出

鎖国が解かれ、欧米諸国との貿易が始まった当時、お茶は生糸に次ぐ重要な輸出品目でした。主な輸出先はアメリカで、五大湖周辺都市や西海岸などに日本茶のファンが多く、紅茶やコーヒーと並んで楽しまれていたそうです。こうした輸出需要の後押しもあって静岡でのお茶の生産量は上がり、宇治や朝宮、土山などから製茶技術の導入も進んでいきました。やがて「ころがし」「でんぐり」といった独自の製法を発明するに至り、静岡は日本を代表するお茶の産地としての地位を確立していきます。

神奈川丸

神奈川丸
しかし、当時、外国と貿易できる港(開港場)は全国で5港に限られ、また、お茶を取り扱うことができるのは横浜、神戸、長崎の3港と定められていたため、静岡から製品を海外に送り出すためには、横浜港に運ばなければなりませんでした。
また、「輸出」といっても、実際には「外商」といわれる海外の貿易商社が進出して輸出を担っていたため、生産側からすると、外商へお茶を販売しているに過ぎず、産地の仲買業者や問屋も商社に売り渡してしまえば終わりで、不利な取引を強いられたり、目先の利益ために粗悪なお茶を出荷して信頼を落とすこともあり価格が安定せず、加えて、横浜港への輸送コストも負担が大きく、産地へもたらされる利益は僅かなものでした。こうした背景から、静岡の茶業関係者の間で「直輸出」への機運が高まります。
THE TEA OF THE WORLD
マッケンジー夫妻

静岡市の名誉市民第1号として知られる、エミリー・M・マッケンジー夫人から静岡放送に寄贈された、昭和初期の記録映像「TEA OF THE WORLD」には、お茶が出荷されるまでの工程に沿って、お茶輸出が盛んだった当時の静岡市〜清水港の様子が活き活きと記録されています。

映像提供:SBSメディアビジョン

一方、明治22年(1889年)、東海道線が開通すると、それまで最寄りの港から輸送船で横浜港まで運ばれていたお茶は、大部分が汽車による輸送に切り替わり、海運業者は大打撃を受けることになります。これによって、遠州灘から駿河湾にかけての港は急速に衰退していきました。この難局を乗り切るために、「清水港からの直接輸出」を目指した運動が活発になっていきます。明治24年の「特別貿易港」指定への請願書を皮切りとした熱烈な請願運動が実り、明治32年、清水港は開港場に指定されます。

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明治時代 清水港輸出の様子 (静岡県茶業会議所所蔵)

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海野孝三郎君頌功碑

開港場に指定されたものの、茶輸出に必要な「再製(火入れ)」工程を行う大規模な工場が近隣に無かったために、清水港に茶輸出のための船が入港することはなく、依然として横浜港から輸出される状況が続きました。
産地静岡からの直輸出実現に向けて、静岡県茶業組合連合会議所の海野孝三郎は、静岡市に静岡製茶再製所を誘致、さらに日本郵船株式会社と約10年にも及ぶ根強い交渉の末、ついに明治39年(1906年)5月、日本郵船の神奈川丸が清水港に入港します。これをきっかけに清水港から茶輸出は年を追って急伸し、明治41年には神戸港を、明治42年には横浜港を抜いて、清水港が日本一の座に上り詰め、大正6年には全国茶輸出高の77%を占る、名実共に日本一の「お茶の港」となったのです。

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海野 孝三郎(1852~1927)
旧安倍郡井川村(現在の葵区井川)出身。
清水港からのお茶直輸出を中心となって実現させ、静岡県茶業組合連合会議所(現在の静岡県茶業会議所)の副頭取として県内の茶業振興に尽力した。

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